前回見たように、カントにおいて運動は単に直観内に現象する物質の属性である以上に、点を動かして直線、直線を動かして平面とするように、形式における展開を可能とする主観の行為、形而上学的原理として位置づけられることになりました。
Wir können uns keine Linie denken, ohne sie in Gedanken zu ziehen, keinen Zirkel denken, ohne ihn zu beschreiben, die drei Abmessungen des Raums gar nicht vorstellen, ohne aus demselben Punkte drei Linien senkrecht auf einander zu setzen, und selbst die Zeit nicht, ohne, indem wir im Ziehen einer geraden Linie (die die äußerlich figürliche Vorstellung der Zeit sein soll) bloß auf die Handlung der Synthesis des Mannigfaltigen, dadurch wir den inneren Sinn sukzessiv bestimmen, und dadurch auf die Sukzession dieser Bestimmung in demselben, Acht haben. Bewegung, als Handlung des Subjekts (nicht als / Bestimmung eines Objekts), folglich die Synthesis des Mannigfaltigen im Raume, wenn wir von diesem abstrahieren und bloß auf die Handlung Acht haben, dadurch wir den inneren Sinn seiner Form gemäß bestimmen, bringt so gar den Begriff der Sukzession zuerst hervor. Der Verstand findet also in diesem nicht etwa schon eine dergleichen Verbindung des Mannigfaltigen, sondern bringt sie hervor, indem er ihn affiziert. (KrV tr. Anal. § 24, 150)
我々は直線を頭の中で引くことなしには直線を考えられない、円を描写することなしには円を考えられない、一点から三直線を交互に垂直に立てることなしには、空間の三次元を全く表象できない、そして、時間ですら、(時間の外的形象的表象であるべき)直線を引くときのただ多様の総合の行為に、これにより内的感官を継起的に規定し、そしてこれによりそこにおけるこの規定の継起に注目することなしには考えることができない。(対象の規定ではなく)主観の行為としての運動、これに従い空間における多様の総合は、これから抽象し、ただ行為に注目するならば、これによりその形式に従って内的感官を規定するならば、この運動はまず最初に継起の概念をすらもたらすものである。悟性はそれゆえ内的感官内にすでにそのような多様の結合のようなものを見出すのではなく、悟性が内的感官を触発することでその結合をもたらすのである。(『純粋理性批判』超越論的分析第24章)
前回見たように、カントにおいて運動は単に直観内に現象する物質の属性である以上に、点を動かして直線、直線を動かして平面とするように、形式における展開を可能とする主観の行為、形而上学的原理として位置づけられることになりました。
「線を引く」ことは、ひたすら時間を規定することであり、加速度のモーメントにより物体(または点)に生じた速度を基とした空間記述であるため、「線を引く」という「主観の行為としての運動」は自己規定の運動であり、対象を自らとして知る自己意識の行為ともなります。その場合、主観の行為と客観を繫ぐものとして構想力(Einbildungskraft)と図式(Schema)が考案されました。
Bewegung eines Objekts im Raume gehört nicht in eine reine Wissenschaft, folglich auch nicht in die Geometrie; weil, daß etwas beweglich sei, nicht a priori, sondern nur durch Erfahrung erkannt werden kann. Aber Bewegung, als Beschreibung eines Raumes, ist ein reiner Actus der sukzessiven Synthesis des Mannigfaltigen in der äußeren Anschauung überhaupt durch produktive Einbildungskraft, und gehört nicht allein zur Geometrie, sondern sogar zur Transzendentalphilosophie. (l.c., Anm., 151)
空間内の対象の運動は純粋科学に属するのではなく、そのため幾何学に属するのではない。それは、何かが運動すると言うことは、アプリオリに認識されるのではなく、経験によってのみ認識されるからである。しかし空間の記述としての運動は、産出的構想力による外的直観一般における多様の継時的総合と言う純粋行為であり、幾何学だけに属するのではなく、超越論的哲学にさえ属するのである。(同上、注)
このように観念論では、ものごとの奥に潜む概念が、その静止的本性を超えて運動を可能としなくてはならないため、自己意識が対象を構成することになります。ただし、その場合経験の対象、現象における物質が運動として現象的実在性(realitas phaenomenon, l.c., 209)を産出し、経験的意識としての知覚を可能とすることになります。
Wenn man diese Realität als Ursache (es sei der Empfindung oder anderer Realität in der Erscheinung, z.B. einer Veränderung) betrachtet: so nennt man den Grad der Realität, als Ursache, ein Moment, z.B. das Moment der Schwere […]. (l.c., Antizipationen der Wahrnehmung, 210)
この実在を(感覚であれ、例えば変化のような現象における他の実在であれ、これらの)原因と見るならば、原因としての実在の度をモーメント、例えば重さのモーメントと呼ぶ【…】。(同上、知覚の予料)
カントの現実的存在/実在(das Reale, l.c., 208f.; Realität, 209)とは、ゼロ(0, l.c., 208)、否定(Negation, l.c., 209)、無(nichts, l.c.)または空(leer, l.c.)を無限小の極限値とし、そこから無限大に至る度を有した対象と言うところから、一般的に言うところの定在(Dasein, l.c., 202)に他ならないことになります。一次元のx軸上で見れば、あらゆる可能な対象のx軸上に占める位置がそれぞれ実在または定在を表現するものとなることで、無はx軸の左に伸びた極限に、存在(Sein)はその極限値の右側全てであることになります。
またモーメントは現在言うところのモメンタム、物体の運動で、これにより実在の度が産出され、経験的意識である知覚がこれを予料することになります。その一つに例えば範疇の一つである因果律を知覚が予料した場合、これは物体に備わるモーメントとして変化を生成することになります。
Alle Veränderung ist also nur durch eine kontinuierliche Handlung der Kausalität möglich, welche, sofern sie gleichförmig ist, ein Moment heißt. Aus diesen Momenten besteht nicht die Veränderung, sondern wird dadurch erzeugt als ihre Wirkung. (l.c., 240)
あらゆる変化はそれゆえ因果律の不断の行為によってのみ可能であり、この行為は、それが同質である限りにおいて、モーメントと呼ばれる。これらのモーメントから変化が成り立っているのではなく、変化はこれらによりその結果として生成されるのである。(同上)
と言うことで、経験的意識としての知覚は、その本質を運動、言い換えると力の原理において予料することになります。言い換えると、客観は主観が構成するものであり、主観は客観の中に自分自身を見る自己意識となります。
Das, Ich denke, drückt den Actus aus, mein Dasein zu bestimmen. Das Dasein ist dadurch also schon gegeben, aber die Art, wie ich es bestimmen, d.i. das Mannigfaltige, zu demselben Gehörige, in mir setzen solle, ist dadurch noch nicht gegeben. Dazu gehört Selbstanschauung, die eine a priori gegebene Form, d.i. die Zeit, zum Grunde liegen hat, welche sinnlich und zur Rezeptivität des Bestimmbaren gehörig ist. (l.c. § 25, Anm., 152)
「我思う」は私の定在を規定する行為を表現している。定在はこれによりそれゆえすでに与えられているが、私がこれをどのように規定するか、即ちいかにしてこれに属するものとしての多様を私の中に措定するべきかは、これによってはまだ与えられていない。それにはアプリオリに所与の形式、即ち時間を基礎とし、感性的であり、また規定可能なものの受容性に属するところの自己直観が属する。(同上)
この場合の自己直観と言うのは、心的状態の感覚的表象で、カントの言葉によれば、
die Anschauung, so wohl der äußeren Objekte, als auch die Selbstanschauung des Gemüts, […] so wie es unsere Sinne affiziert, d.i. wie es erscheint (l.c., 93)
外的対象および心的状態が我々の感覚を触発し、即ちそれらが現象する場合の外的対象の直観および心的状態の自己直観(同上)
と言うことになります。と言うことで、直観にせよ、自己直観にせよ、基本的には思惟の行為としてあり、言い換えると自己の対象において自己自身を見る自己意識の根本的形態となっています。
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