デカルトはそれまで「神学の侍女」(トマス・アキナス)とされていた哲学を教会の束縛から解放し、ヨーロッパ「近代哲学」1 (ハイネ)の基礎を築いたことで知られています。これをヘーゲルの解説で見てみましょう。
René Descartes ist in der Tat der wahrhafte Anfänger der modernen Philosophie, insofern sie das Denken zum Prinzip macht. Das Denken für sich ist hier von der philosophischen Theologie verschieden, die es auf die andere Seite stellt; es ist ein neuer Boden. Die Wirkung dieses Menschen auf sein Zeitalter und die neue Zeit kann nicht ausgebreitet genug vorgestellt werden. Er ist so ein Heros, der die Sache wieder einmal ganz von vorne angefangen und den Boden der Philosophie erst von neuem konstituiert hat, auf den sie nun erst nach dem Verlauf von tausend Jahren zurückgekehrt ist. (Hegel, G.d.Ph., S. 123)
ルネ・デカルトは実際、近代哲学が思惟を原理とする限りにおいて、その真の創始者である。ここにおいて、思惟そのものがこれを他の場に置く哲学的神学から峻別され、新たな場を獲得した。デカルトの同時代および近代全般に与えた影響は、いくら強調してもし過ぎることはない。デカルトはこのようにしてものごとを再たび全く初めから開始し、一千年を経過した後にやっとのことでそこに復帰することができるようになった哲学の場をここに新たに構築した英雄である。(ヘーゲル『哲学史』)
デカルトは合理主義哲学の父とも呼ばれていますが、その合理主義は、全てを疑う「方法的懐疑」に基づいています。感覚や経験がしばしば誤りをもたらすことから、まず一度それらに基づく知識全てを疑いの対象とし、哲学や個別科学を始めとする、あらゆる思惟の基盤となるべき「絶対に疑うことのできない真理」を見つけ出そうとしました。この過程でデカルトが到達したのが、あの有名な
「我思う、ゆえに我あり」
Cogito, ergo sum – Ich denke, also bin ich – I think, therefore I am – Je pense, donc je suis
であることはよく知られていますが、このより基本的な形は、
「我疑う、ゆえに我あり」
Dubito, ergo sum – Ich zweifle, also bin ich – I doubt, therefore I am – Je doute, donc je suis
となります。「疑う」と言うことは「思う」の一形態であるからです。次にここまでに至った経緯をごく簡単にデカルトの『省察』や『方法序説』などの著作から見て行きましょう。
スコラ哲学の何でも神の業(わざ)とする説明に飽き足らないデカルトが、この世の中で確実なものとしては一体何があるのかと探して行く中で――これは一般的に方法的懐疑と呼ばれていますが――まず感覚に現れるものが不確かで疑わしいものとみなされました。と言うのも世の中には蜃気楼や逃げ水などの錯覚や毒キノコやLSDによる幻覚などという現象もあるし、精神障害による幻想や妄想、フラッシュバックや白昼夢もあります。また普通に誰もが見る明晰夢の中でも相当の現実感があるため、これら意識に上る感覚的なものが、単なる錯覚なのか、また幻覚や幻想、夢中の存在なのか、はたまた現実の存在なのかは一概には決定しかねるところがあるからです。それでは全く非感覚的なもの、例えば数学の公理や普遍的な類や種などの存在はどうでしょうか。これらはいかにも普遍的な真理のように見えますが、いまここに邪悪な魔神がいるとしましょう。そうなると、私たちが意識していることが全て、この邪神に誑(たぶら)かされたために起こった幻想なのではないと断言できるような確実な根拠はどこにもありません。
次の原文はラテン語ですが、ここではドイツ語訳を掲載しました。
Ich setze also voraus, daß alles, was ich sehe, falsch ist, ich glaube, daß nichts jemals existiert hat, was das trügerische Gedächtnis mir darstellt: ich habe überhaupt keine Sinne; Körper, Gestalt, Ausdehnung, Bewegung und Ort sind nichts als Chimären. Was also bleibt Wahres übrig? Vielleicht nur dies eine, daß nichts gewiß ist. (Descartes, Meditationen, II.2)
私はそれゆえ私が見るすべてのものが誤りであると仮定し、私の不確かな記憶に現れるものが何も存在しなかったと思おう。そうすると私は感覚を持たないものとなり、身体も形姿も延長も運動も場所もすべてキメラ(幻想物)でしかなくなる。そうすると何が真なるものとして残るか。おそらく確実なものは何もないと言うことが残るだけであろう。(デカルト『省察』II.2)
何も確実なものがない中でも、それを求めて思い惑っている私はいます。その私が邪神に誑(たぶら)かされているとしても、それが幻想であったとしても、確実に言えることがただ一つあります。それはそのような、騙され続けている、まさにその私がいると言うことです。
Aber es gibt einen, ich weiß nicht welchen, allmächtigen und höchst verschlagenen Betrüger, der mich geflissentlich stets täuscht. – Nun, wenn er mich täuscht, so ist es also unzweifelhaft, daß ich bin. Er täusche mich, soviel er kann, niemals wird er doch fertigbringen, daß ich nichts bin, solange ich denke, daß ich etwas sei. Und so komme ich, nachdem ich nun alles mehr als genug hin und her erwogen habe, schließlich zu der Feststellung, daß dieser Satz: “Ich bin, ich existiere“, sooft ich ihn ausspreche oder in Gedanken fasse, notwendig wahr ist. (l.c., II.3)
しかるによくは分からないが全能で巧妙この上ない詐欺の邪神がいて私を騙(だま)し続けているとする――さて、この邪神が私をわざと騙し続けているのなら、そうならば私がいると言うことは疑いのないこととなる。この邪神が私を全力を挙げて騙したところで、私が何かであると思っている限り、この邪神は私が無であると言うことは絶対に成し遂げられないであろう。そしてこのようにして私があらゆるものを十分に検討した挙句、私は「我あり、我存在す」と言う命題が、私がこれを言い、または思う毎に必然的に真理であるという結論に達するのである。(『省察』II.3)
騙されている私がいなければ、騙す相手がいないことになりますから、騙す邪神がいるとすると、最低限騙される存在もそこになくてはならないと言う論理となります。この件(くだり)を『方法序説』で見てみましょう。こちらの原文はフランス語です。
Mais, aussitôt après, je pris garde que, pendant que je voulais ainsi penser que tout était faux, il fallait nécessairement que moi, qui le pensais, fusse quelque chose. Et remarquant que cette vérité :je pense, donc je suis, était si ferme et si assurée, que toutes les plus extravagantes suppositions des sceptiques n’étaient pas capables de l’ébranler, je jugeai que je pouvais la recevoir, sans scrupule, pour le premier principe de la philosophie que je cherchais. (Descartes, Discours de la Méthode, IV)
しかしすぐその後、私がすべてが虚偽であると思いたいにしたところで、そう思っている私は必然的に何かでなくてはならないと言うことに気がついた。そしてこの「我思う、ゆえに我あり」と言う真理は、懐疑論者たちのあらゆる突拍子もない仮定と言えどもこれを動揺させることができないほど確固で確実であることが分かり、私が探していた哲学の第一原理として何ら躊躇(ちゅうちょ)することなく受け入れることができると判断するに至った。(デカルト『方法序説』IV)
このようにして思惟の存在が観念の存在として基礎付けられ、合理主義哲学、観念論および近代的主体の構築の端緒が切って開かれることとなりました。
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1 „René Descartes ist der Vater der neuern Philosophie“ (Heine, Zur Geschichte der Religion und Philosophie in
Deutschland, II. Buch).
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